パパ45歳、強制的ライフシフトしました。その1

パパがウツになりました。ワーカホーリック、ストレスマネジメント下手、不健康極まりない生活から強制的にライフシフトに取り組んでいくお話です。

パパがウツに??

初めて告げられた日

12月23日
夕方、子ども隊と一緒にリビングで過ごしていた時、パパからライン電話が鳴った。
珍しいなと思った。

パパ
「今何してる?出てこれる?」
「近くの公園にいてるんやけど。」

私の頭の中は?だらけやったけど、なんとなく一人で行くべきやな、と感じて
一番分厚いダウンを羽織って、携帯だけ持って出た。

思えば昨日はなんか言いたそうな目をしてた気がする。
いつもカジュアルスタイルで仕事に行くけど、完全にオフの日のスタイルだったので、「今朝はなんで日曜日みたいな格好なん?」って聞いた。

「どうか悲しいお知らせじゃありませんように。」
そう願いながら公園に向かって信号を渡った。

公園に近づいたら、ベンチに座ってる背中が見えた。
いつもより丸く、しょぼんとしてた。

どんな順番だったかもう覚えてない。

パパ
仕事をしてもしてもその判断があってたのか不安で仕方なく、自分の力不足がまた不安になること。
ずっと不安が消えなくて、心臓がキュッてなることが増えたこと。
私と一緒に旅行に行ったりドライブしたりしてても、その不安が消えないこと。
物欲も食欲も無くなってきて、楽しいと思えることが無くなってきたこと。
自転車で走ってみたり、楽しい、と思えるきっかけがないか試してみたこと。
せめて家族の喜ぶ姿を見てたらその不安が消えるかと、家族で楽しいことに努めてみたこと。
それでもやっぱり消えなくて、このままじゃ危ないと思って病院に行ったこと。
カウンセリングしてもらって、検査して、うつ状態だと言われたこと。
不安を取り除く薬があるんやってな、それ出してもらったと言ったこと。
会社で今のポジションから外れたらどうなるかわからない。
でも仕事をし続けると不安は続く。やっても不安、やらなくても不安。

涙を流すわけでもなく、ポツポツと話してた。
死ねたら楽やろなあ、と思ったこともあると。

ああ、悔しいな。
こんなにそばにいたのに、毎日話して、冗談言って笑って、ハグして過ごしてたのに。
私メンタルオーガナイザーなのになぁ、とか。

子供がまだ乳飲み子だった頃、同じように仕事がしんどすぎて「もう死にたい」って言ったことがあった。
その時は夫婦関係も最悪で、実家に帰ってたところに呼ばれて義両親と4人で話し合ったのを覚えてる。
「はあ?子供3人もいてて何死にたいとか言うてんの?」ってのたまった苦い記憶。(鬼やん、ってほんま我ながら引くわ。)
「大黒柱が何言うてんの」と突き放した。
その後どうやってパパは回復したんだろう。その頃の記憶はとってもぼんやりしてる。

あれから10年経ったかな。
私ももがいてあれこれ学んで、不安に押しつぶされそうになってるパートナーの身体をさすりながら、不思議に「大丈夫、なんとかなるから」と思えた。

長女は私立大の理系に進学が決まり、卒業まで600万の学費を払うことが決まってる。
なんなら合宿免許に申し込むぜー!って言ってたところ。
長男は私立高校に入ったばかり。
次女はダンスして生きて行きたいって一生懸命スクールに通っている。
マンションのローンはやっと金利分を払ったくらい。

いろいろあってほんまに貯金のない我が家。自転車操業の足を止めたら転ぶのは目に見えてる。
お金の不安だけでも、さらっと考えても鼻血出るくらいあるわな。

10年前は「どうすんねん!」とうつ状態の夫をさらに追い詰めると言う暴挙に出た私ですが、
今回はただただ受け止めることができた。

とりあえずパパを覆っている不安に巻き込まれることはせず、
なんとかなる、と思えるライフラインを思い起こしながらそばにいた。

おかげさまで私は元気で、これから必死で働くことはできる。
私がいなくても子ども隊はそれぞれ自律して暮らす能力は身につけてる。
両親はどちらも健在。
知恵と知識を持ってる友達がたくさんいて、きっと助けてくれる。
私の強みの一つはポジティブ。

さえたん
「なんの根拠もないけどな、大丈夫やで。心からそう思ってる。なんとかなるし、なんとかできる。パパが元気で生きててくれることが一番大切なんやで。」
そう伝えた。
パパ
「そういうところに、引っ張ってきてもらってるなと思う」
と言ってくれた。

昔突き放してしまったことを後悔してる、だから今は一緒に乗り越えていきたい、と伝えたときだけ、泣いてしまった。

とりあえず会社にメールするわ、帰ってて。と言われたので、一旦帰った。
自分が一番弱い状況に陥るであろう時に、そばに誰かがいることに、この人は慣れてないから。

帰ってから何も聞かずに夕食の用意を手伝ってくれた長女に、私が救われた。
いつもよりさらに口数が多かったから、めっちゃ気を使ってくれてたんやと思う。

それから結構な時間が経って、ちょっと心配してた頃に、LINEが来た。
「メールしたら涙が止まらなくなった」と。

「行こうか?」と聞いたら、「嬉しい」と返って来た。

長女にポテトサラダの続きを頼んで、もう一回公園へ向かった。
すっかり暗くなった公園で、パパはイヤホンをつけてぼんやり座ってた。

パパ
会社に伝えたら、ホッとして涙が止まらなくなった。悔しいわけじゃない。

涙が出た、ということにホッとした。
もう泣くこともできない状態なのかと心配してたから。

元々、感情が表に出ない人。
自分でも、どうやって表に出せばいいのかわからないところがある人。
必死で止めようとしても感情が溢れ出す私とは正反対だから、お互い理解するのに時間かかったよね。

感情はセンサーだから、そのセンサーすら反応しなくなってたら重症かもしれないと覚悟してた。
だから、泣けたらいいなと思ってた。

二人で一緒に家に帰った。
次女は「パパ元気ないやん。」って聞いたけど、「うん」って返事してそのままみんなそっとしてた。

我が家はしょっちゅう誰かが喋って笑ってる。
それが本当に救われた。

この日は子ども隊には何も言わなかったけど、パパには伝えておいた。
うちの家族は、どんなパパでもちゃんと受け止めてくれるよ、と。
それは本当に自信があった。

さえたん
と、ここまでは翌日にいつかネタにしてやろう、と思って書き留めていたモノです。

とりあえず、休もう

会社からは、「とりあえず休んでください」とのことで、クリスマスから年始までしっかり休暇になった。
クリスマスから年始なんて、一番忙しい季節なのでそれこそ休むことが不安だったと思う。

後から仲良しの同僚の方に聞くところによると、「一切田中さんには連絡しないこと」というお達しが出ていたので、みんなコロナに感染したんちゃうか?と噂していたらしい。

ちょうど子ども隊が冬休みに入ったタイミングだったので、「今年はパパおやすみやねんで!」くらいの感じだった。
クリスマスも大晦日もお正月もいつもより家族で過ごした。

子ども隊がいつも通りでいてくれたことに、私はものすごく救われたし、パパも救われたと後から聞いた。

ただ、回復するまでには半年以上かかるだろうなと覚悟はしてた。

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ライフオーガナイズを基本に、お母さんがかわいく・賢く・楽しく・朗らかに生きるためのヒントときっかけをお伝えしています。 お母さんが楽になって家族も自立する仕組み作りが得意です。